2013年06月23日

改めて

フラメンコにはいくつか代表的な曲の種類がある。

調がメジャーかマイナーか、
リズムが3拍子か4拍子か、
どういうふうに始まり、どこで盛り上がり、
足はどこに入れるか、という、全体の構成が
曲の種類によって大体決まっている。
そして同じ曲の種類に対し、
歌(メロディーと歌詞)が複数存在する。


私が一番好きなのは、喜び、歓喜という意味の
alegriasという曲だ。その名の通り、とても明るい曲。

そして、alegriasの歌として最もよく歌われる
ある歌の中の4小節ぐらいが、特に好きだ。

その部分を踊っているといつも、自分が光に包まれて、
そして自分の体からまさに歓びが光となって
外に向かって放たれるような、
私、恋している!みたいな気分になっていた。
歌詞も「君が好きだ!」みたいなんだと勝手に勘違いしてた。


そうしたら、その4小節は...

♪街が爆撃を受けて、全部壊れた。
壊れた街をみながら煙草をふかしていたら、
その煙の向こうに昔の街が、街の光が、見えた。

というような意味の歌詞だったと、
この曲で初めて踊ってから15年たった昨日、はじめて知る。


似たような感じで、めっちゃかっこいい歌詞だと思っていたら
ひたすら「赤、青、黄、白〜」と色を連呼してたり
悲しみ、という曲だし、
これはいったいどんな深い悲しみなのかしら、
と思いきや、姑との問題を歌ってたり。


日常のほんのささいなことの中での
喜怒哀楽の表現の豊かさ。
本来とてもしんどいはずのことを
それはそれと受け止めて、明るく歌い上げるたくましさ。
それこそがフラメンコなのかな、と思う。

私は言語としては例え認識してなくても
そういうものをずっと身体で踊ってきたんだなあ、と、
改めてしみじみと思う日でした。

(ちっとは勉強して言語でも認識しろよ、とも思いつつ、
これまでもしなかったので
これからもたぶんしないでしょう)
posted by まゆか at 10:36| Comment(0) | TrackBack(0) | フラメンコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月13日

本物

出張が続いたため、
5月のフラメンコのレッスンは
すべてお休みした。

フラメンコって、
一度続けて休むと、
やめたくなるのだ。

踊るという行為や、
自身がフラメンコのような
先生の踊りから離れた瞬間、
かかる時間やコスト、
人間関係まわりや
様々な暗黙のルールのことなど、
すべてが重くなってきて、
丸ごと投げ出したくなってしまうから。


やめるべきかやめないべきか、
もやもやしていた昨日。
スペイン人のギターさんと
歌い手さん(先生の旦那さま)が
レッスンにやってきた。

うわわ。
一気にテンションが上がる。
もやもやが吹っ飛ぶ。


やっぱり本物はいい。
スペイン人にしか刻めないリズムの上に
踊りと歌とギターが一緒になった時の戦慄。
その一部になる高揚感。

高い技術とプロ意識と、
壮絶にいい加減な感じが
なじんでいく感覚。


そうだ、この感じに触れてくて、
続けているんだった。

例え、そのまわりに、
ごてごてとあまり好きでないものが
くっついていても
芯の部分にあるものを
時々でも感じられるなら、それでいい。


無理せず、細く、長く、
続けていこう。

時折、やめたい、と、
ぶつぶついいながらも。


...と思ったら、
去年の今頃、同じようなことを
ぶつぶつもやもやしてました(笑)
こうやって繰り返していくんですね。
posted by まゆか at 17:03| Comment(2) | フラメンコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月22日

歌舞伎とフラメンコ

普通の新聞以上に、
きちんと毎日読み込んでいる
ほぼ日刊イトイ新聞」に、
歌舞伎の「大向かい」、
客席から声をかける人との
インタビューが載っている。

歌舞伎の役者の見得が決まった時に、
「なかむらやぁ!」とか、
「待ってました!」とか、
言う人たちだ。


とても、おもしろい。


記事を読んでいて、
すごく思ったのは、
フラメンコと歌舞伎が似ている、ということ。


フラメンコはたいていの場合、
ギターと歌と踊りがセットになっているが、
そこにかかせないのが
「ハレオ」と呼ばれる掛け声。

うわー、きれいと思ったら、
"Que Bonita" (きれいだねえ)
足をがたがたやっているときは、
"Toma toma"(もっとはやくー)
"Eso es"(その調子!)
みんなで一斉に、というときは、
"Vamos"(さあ!)
などの掛け声をかける。

踊っているほうも、
ハレオで気持ちが一層盛り上がる。


ただ、かけられたらそれだけで気持ちいいか、
というと、そうでもなくて、
やはりフラメンコの間合いやリズム、
その曲の緩急がわかった人がかけるハレオでないと、
逆に調子がずれてしまったりもする。

これは、歌舞伎でも一緒で、
時折役者さんのほうから大向うさんに、
「今日のはよかったよー、調子が出た」
「掛け声をかける側からみるとここでいいけど、
役者としては、本当はここがいい」などなど、
そんなお話があるそうな。


そのインタビューの一節に、
==========================
そもそも日本人は舞台を観て感動したときに、
「拍手をする」というよりは
「囃す(はやす)」というのが
普通だったらしいんです、どうやら。
==========================
というのがあった。


これは、何だかすごく納得した。


今は乾杯の後でさえ、
ちょっとした沈黙の間を埋めるためなのか、
日本人は拍手したりしているけど、
どことなく西洋的、近代的な、
感情表現な気がしてたから。


国会の野次って、品がなくて嫌いだが、
あれも、一種の「お囃子」なのかも。


そういえば、
スペイン人の歌い手さん(カンテ)の方が、
いつかこんなこと言ってた。


「ポップシンガーの歌を聞く限り、
日本人の声とリズム感では、
フラメンコのカンテは向かないと思ってたら、
演歌を聞いてびっくりぎょうてん。
声の出し方、哀愁の漂わせ方、感情の込め方...
フラメンコの歌、そのものだったから」


何千キロも離れているけど、
どこか、つながっているのかな。
ジプシーと日本人って。
posted by まゆか at 22:08| Comment(0) | フラメンコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月01日

フラメンコと山くずし

フラメンコ。


途中5年のブランクがあるが、
始めてからもうずいぶんの月日がたつ。

このところ、フラメンコへの気持ちが
加速度的に平たんになっていた。
あまりにもデモチ状態になり、
レッスン中すら眠い、みたいな時期も続いた。


やる気のなさの最大の理由は、
発表会が近づいていたから、である。

私の通う教室は、静岡と仙台に大きい教室があり、
発表会の際は、静岡か仙台で開催となる。
今回は静岡。すなわち観客はほぼ全員見知らぬ人。
3校合同なので演目がやたら多く、
数少ない自分の出演はすべて大人数群舞。


大学のフラメンコサークルでは、
初代メンバーだったこともあり、
何も知らないのを強みに、
ろくにリズムも取れないのにソロをやったり、
3人で老舗のフラメンコレストランを借り切ったり、
業界のあらゆるルールを無邪気に無視して、
やりたい放題やっていた。それが楽しかった。
家が花束で埋まったことも何度かある。

そんな甘ったれた初期の経験が染み付いたせいか、
私にとってのフラメンコというのは、
自分の好きな人たち(なるべく多く)に、
自分の踊り(なるべくクローズアップで)を、
「観てもらいたい」という自己顕示欲求と表裏一体。

踊りたいから踊る、という、
純粋な表現活動ではないのだ。


だから、よく知らない土地で、
たくさんの人たちと一緒に踊る、という発表会に、
いまいち盛り上がれない。

しかも今回は、舞台の完成度を高めるため、
かなり前倒しで発表会準備に入っており、
振りもだいぶ前に仕上がっていて、
直前に必死で覚えるスピード感もない。

その気持ちをさらに逆なでる、
次から次へとやってくる出費。
出演料、衣装代、ホテル代、リハ代...
こんな大金はたく意味、あるのかなあ。
この発表会が終わったら教室をやめようと、
何度も本気で考えた。


そして、もやもやのまま迎えた、本番。


本番独特の緊張感が漂う中、
照明を浴びて舞台に立つと、
例え、20分の一の存在でも、
飽きるほど踊った振りでも、
それでも踊る楽しさが減るわけじゃない、
ということを改めて気付かされた。

観客の中で、たった一人でも、
私の踊りを見に来てくれた人がいるなら、
それで充分、ということもわかった。
ただ、その人のために、踊る。
人数は関係ない。


発表会が終わって、
もやもやが全て吹っ飛んだわけではないけど、
でもやっぱり、フラメンコは、
これからも続けようと思った。


フラメンコは、私にとって、
将棋の山くずしの一駒みたいなもの。

その駒がどれだけ大切なのか、
自分でもわからない。
でもそれが抜けると、
微妙な人生のバランスが崩れ、
全体がぐしゃっとつぶれてしまう、
そんな存在なのかもしれない。
posted by まゆか at 21:29| Comment(4) | フラメンコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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